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2007/04/29 (Sun) 内的自由

 
わたしはこの本に、何度も助けられました。
『夜と霧』 ドイツの強制収容所での体験を描いた、心理学者のフランクルさんの著作。

強制収容所は、映画でもなくドラマでもなく、本物の現実の地獄です。
そこで人間は、際限なく貶められ辱められ、ゴミのように扱われ。
一片のパンとボロボロのシャツで、飢えと寒さと身体の痛みに襲われながら
今日は監督に殴られないだろうか?と心配しながら強制労働させられるのです。
次々に倒れて死んでいく、また殺されていく人々を見ながら、
次は自分の番だろうか?と過ごすのです。

(…なんだか、キーボードを打ちながらも怖くなってしまうような状況。)

 
フランクルさんは書いているのですが、
そんな中でも「内的自由」を失わなかった、少数の人がいた、と。

内的自由。
そんな地獄の中で、自分も他者を殴り、虐待する側に回るのか。
他者に思いやりの優しい言葉をかけて、一片のパンを弱者と分け合うのか。
自分はどうするのかを選ぶ自由。

極限状態の中で、心まで「収容所囚人」となるのか、
それとも「人間」として留まるのか。

フランクルさんも、飢えて、その上徹夜しなければならなかったりした時に
側に横たわる誰かを殴ったり、蹴り上げたりしたくなる衝動に駆られたといいます。
それほどの状況でもなお、彼が強制収容所を生き延び、
内的自由まで奪われてしまわなかった理由には、
彼の高い精神活動にあったのではと思いました。

収容所では、フランクルさんの慰めの言葉に対し、望みを失った人々はこう言います。
「私はもはや、人生から期待すべき何ものも持っていないのだ」
それに対しての彼の答えは、こうです。
「我々が人生の意味を意味を問うのではなくて、我々自身が問われた者として体験されるのである。
 人生は毎日毎時、問いを提出し、我々はその問いに、
 詮索や口先ではなくて、正しい行動によって応答しなければならないのである。」

ここを読むとき、不軽菩薩が思い浮かんできます。
自分に石を投げる増上慢に対しても、「あなたを軽んじません。あなたは仏になる人だから」と言って礼拝した菩薩。
不軽菩薩も、フランクルさんも、人間の心はみな同じように出来ていることを知っていたから
人をさげすむようなことをしなかったのではないかなぁって、勝手な解釈ですがそう思います。
昨日、他人に石を投げていた人間が、明日にはパンを分け合う人間にもなりえるのだと、知っていたのではないかと。


人間って、なんだろうか…?
なんて、思い巡らすとき、フランクルさんは助けてくれます。
(そんなことを考えるときは、たいてい苦しかったりするとき)
内的自由があるのだと、思い出させてくれます。
何をするのか、自分の行動を選ぶ権利が、あるのだと。

フランクルさんの哲学は、現代にもっとも必要とされているものだと、思いました。


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Author:散歩虫
議論ある仏教系(日蓮系)宗教団体を脱会した、2世のその後。
カルト問題、マインドコントロール、心理学から見た宗教問題、脱会後のリハビリ、その他いろいろ思ったことを書いています。
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