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2007/06/19 (Tue) 生命

 
生命。
グループではよく、「いのち」と読みます。

なんだか、避けて通れないことのようなので。
向き合ってみましょう、か。

(けれど、なんか今まで避けていたのは、
やはり向き合うのにそれなりの勇気がいることだからなんだと思います…)


 
いわたちさんのお言葉を、そのまま使わせていただくと
『個における生命と宇宙生命が律動し一体化する』
梵我一如と言うそうですが)
これは、本当によく、グループ内で教え込まれることのひとつです。

題目によって、自分の生命が、三千大千世界(すべての世界のこと)にあまねく感応し、
生命力が豊かになり、
また自分の祈るとおりに願いがかなう、というように教わったと思います。

このイメージが、やっぱりわたしにも、しっかりと植え付けられているようです。
ただ、無我ということを考えていただけなのに、
自分でも気づかないうちに、そういうイメージから物事を発想しているなんて
ちょっとビックリ。
いや、かなりビックリ。
本当はすごく、ビックリです。


脱会して、ほとんど教学は忘れちゃっていたようでしたが
こういうきっかけがあると、スラスラ出てきますね。
「もし己心のほかに…」とか
「日夜朝暮にまたおこたらず磨くべし」とか
あ、これは同じ御書か。
「月々・日々につより給え」とか。

と、ここで気づきました。
「毎日毎日、怠らずに磨きなさい」というMCではないでしょうか、これは。
今の私に、↑これも作用しているかもしれませんね。
うまく休めないと言うか、ゆっくり歩けないというのは。

そして、その後に続くのが、
「すこしもたゆむ心あらば魔たよりをうべし」 ですよ。
サボると、魔が来ちゃいますよ~と。
無意識の中に、休むことに罪悪感や恐怖を受け付けるツールとしては
充分だと思います。

グループでは、こういう御書の一説を、活動に駆り立てるために使うのが常ですが、
わたしはここで、日蓮が「魔」という言葉に、本当はどんな意味・意義を込めたのか
知ることが大切なのではないかと思いました。

というわけで、一生成仏抄と聖人御難事を、読んでみよう。
解説本なしで、通解がわかるかなぁ…というのが心配ですが。
とりあえず、後日、やってみたいと思います。


しかし。
まったく、なんということでしょう…重大なMC発見。
信じられないよ(ノ_・。)ぐすん。。。

でも、気づいて本当に良かったです。
多謝。



さて。
生命という言葉で、忘れられない思い出があります。
小学生のとき、某会合(訓練・練習)での出来事です。

終わりのミーティングで、みなで整列して座って、話を聞いているとき
わたしの少し前にいた子たちが、余所見をしていました。
「そこー!何してるのー!」という幹部の声。
彼女たちの言い訳を聞いた幹部は、すごい剣幕で叱り飛ばしました。
「そんなことで揺れ動くような『生命』なんですかっ!!」
…。
彼女たちの後ろで、顔面蒼白で身を縮める、散歩虫。
怖~。って(笑)

そうなんですよね。
グループメンバーにとって、生命という言葉は、
教義の中でもとても大切な核になるものです。
今考えれば、動くもなにも、ないんですけれど。
それにさ、まだ小学生ですよ…

(誤解のないように書き加えておきますが、
優しく励ましてくれる先輩も、もちろんたくさんいらっしゃいました。
みんながみんな、唾を飛ばして叱咤激励する人ばかりではないです)



というわけで。
記憶は、決してなくならず、無意識の中に埋まっているという、格好の例でした。
考えてみれば、これは脳の作りから言っても、当たり前のことなんですけど
でも自分でも気づかないうちに、今もその埋め込まれた教義に影響されているのが驚きです。

脱カルトにおいて、とても大切なことですよね。

あと、どれだけ埋まっているんでしょうか…。

自分と世界が一体、というイメージは、わたしにとっては、
それほど持っていて悪くもないと思います。
(そこから、妄想に発展しなければ(笑))
草木成仏の教えなども、わたしは好きです。

それと、自分を磨くことも、良いことだと自分で思います。
その方法さえ、間違わなければ。
また、磨くのは「生命」ではなく、人格ですよね。

あんまりゴシゴシ磨きすぎると、すり減っちゃうかも。
気をつけよう、っと。


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comment











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みみちゃん

こちらこそ、ありがとうございます。

>いろんな人の考えや意見を聞くことはとても大切なことですね。
>それも一回、二回聞いただけですぐに結論を出さないで、聞いていくことが世界を広げる・・心を広げることになるのかと。

↑これ、まったく同感いたします。


みみちゃんは、充分に多彩な方だと思いますよ(笑)
色んなところでコメントお見かけするたびに、
語彙のバリエーションがすごいなぁって感心しています。

グループの色、一色に塗りつぶされなかっただけでも、
誇っていいと思いますよ(^ー^)

2007/07/09 22:46 | 散歩虫 [ 編集 ]


ありがとうございます 

散歩虫さん

いろいろありがとう。

いろんな人の考えや意見を聞くことはとても大切なことですね。
それも一回、二回聞いただけですぐに結論を出さないで、聞いていくことが世界を広げる・・心を広げることになるのかと。

多彩な人間になりたいな・・と、思います。

水のように風のように、するりするりとどこにでも通り抜けていけるような自分に・・

2007/07/09 09:04 | みみちゃん [ 編集 ]


 

そううそさん

>やっとピンと来た?ような気がします。

そうでしたか(^ー^)
社会奉仕活動は、個々人の自由で行われるべきものだと思いますが、
本来の仏教の目的は、各人の成仏、つまり「人間として倫理的に完成された自己を目指す」ことなんだそうです。

社会の中で、自分が出来ることを精一杯やれば、いいのではないかなぁと思います。


>そうしたことを重視しない自分になっていた気がします。

グループでは、「実証」を示さなきゃいけなくて、
それは他者から「どう見えるか?」をいつも問われる結果になっちゃうのかもしれませんよね。
メンバーが「正しい」ことの証明として、客観的に見ることの出来る肩書きは、あると便利なんでしょうね~。

そんなことよりも、目の前の人が、なんらかの自分の働きかけによって、ちょっと笑顔になったりすることのほうが、
100倍喜びのあることなのに。
と、わたしも今は、思えるようになりました。

2007/07/08 11:21 | 散歩虫 [ 編集 ]


 

みみちゃん

>活動家の人の「根底意識に対して」の嫌悪で、それは違うよ、と。

そうですね…
わたしも脱会後、しばらくはこの状態で、嫌悪が渦巻いていました。
確かに以前は、わたしもアンチでした。
しかし、心理を学んだり、社会の色んな場所を体験したり、色んな立場のヒトと話したり、そういう経験を踏んでみて、
かつて在籍していたグループだけじゃなくて、人間社会には似たようなものがたくさんあるってわかりました。

「それは違う」とわたしも思うんですが、
その方々にも「そうなってしまった」理由があるんだろうなぁって、思えてきて。

(たぶん、わたしは、組織の中にいて脱会なんて考えていなかったときのほうが、各リーダーに対する嫌悪はあったかもしれません(笑))

それに、グループによって助けられた人たちも、少なからずいたでしょうから。
社会の需要がなかったら、こんなにたくさんの人が、メンバーであるはずがないと思うんです。

カルトって、はまってしまうと、楽しいし生きがいにはなっちゃうところが、
怖いところだと思います。


>、「地域の一人者」的存在として、自治会長とかPTA会長とか、そうした「肩書き」のある立場になることの奨励みたいな指導に変わりました。

今日、記事を書いた本の中にもありましたが、グループの実体って、
「人間関係」なんだと思います。
それを作るには、また影響力のある人物になるためには、肩書きを持つことは必要だったのではないでしょうかねぇ。


>これは是非叶えたい縁ですね。

勉強会は、確か脱会していることが条件だったと思うのですが、
「カルト入信問題」に関するメールや対面でのカウンセリングは、
してくださっていますし、
「間違いを明らかにして主張される方々」ですよ(^ー^)

ただ、みれいさんもどこかに書いていらっしゃると思いますが、
大変にお忙しいようですし、スパムなどのいたずらメールも多いようなので、メールしても繋がりにくいことも多々あるようです。

とりあえず、お時間のあるときにでも、良かったら気軽にわたしにもメールいただけたら、と思います。
(左のメールフォームから)


2007/07/08 11:09 | 散歩虫 [ 編集 ]


やっとピンと来た? 


以前からある人が私に「宗教者なんだから社会奉仕活動が必要、」と言って下さる方がいました。
確かに言っている意見は賛成できるんですが、今ひとつピンと来る物がありませんでした。

>>本当の意味での人間救済、苦しんでいる人に手を差し伸べるような社会活動なんて、する気はないんだなぁって、それに思い至ったときには幻滅しました。

>グループ内には、個人的にそうやって社会で頑張って奉仕している方がいる。それを知った時、確かにそうだよな・・本当はそういうことをしていかないといけないんだよな・・と思いました。

>社会奉仕はどこまでも「小善」であり、組織に奉仕する・・組織内活動が「大善」である、
>先輩達からも、そうしたリーダーの指導を引用した見解を聞かされてきましたし。それが今度は突然、その奉仕というのがなぜか弱者救済・援助というのではなく、「地域の一人者」的存在として、自治会長とかPTA会長とか、そうした「肩書き」のある立場になることの奨励みたいな指導に変わりました。

あぁ、、、、なるほど。。。。と思いました。
やっとピンと来た?ような気がします。
某グループのMCの影響から大なり小なり、そうしたことを重視しない自分になっていた気がします。

2007/07/08 01:29 | そううそ [ 編集 ]


 

散歩虫さん

>グループに疑問を持ち始めた頃は、こんなに非情な活動をしているのは、自分の地域だけなのかもしれないって思ったりしていたのですが、東京のほかの地域も同じ打ち出しなんだってわかって、絶望しました。

ああ・・よくわかります。
そうなんですよね、『こんなに非情な活動』という悲しい気持ちをいつも感じることが多かったんです。
活動内容は当然ですが、個人の振る舞いを見ても「この人はなんて冷たいんだろう」と感じる人が多かったですよ。

グループの人たちは、会合とかの場所ではグループ内の「立場」として慈愛を語り、そこから場所を移して一個人という立場になると、いとも簡単に非情な振る舞いをする。
これが私には一番理解し難いと思ってました。自分はどこへ行っても何をしても誰と会っても「自分」であるわけで、グループの中と外とで、どうしてそんなに違う言動がとれるのか、すごい不思議でしたね。
とくに偉い人はそうした違いが顕著でした。

>アンチではないので、グループを全否定もしませんのですが。

そうですか・・
じゃぁ私はアンチかもしれませんね。
今のグループは正しくないと思うから、全否定的に見ているし考えてもいます。
でも一人ひとりを否定しているわけでも嫌悪し憎んでるのでもないです。
活動家の人の「根底意識に対して」の嫌悪で、それは違うよ、と。
これと同じで、リーダーのこともそう感じています。

>わたしが批判するのは、すべて組織悪についてです。

私は「組織の思想」に対してです。「精神性」ですね。

>本当の意味での人間救済、苦しんでいる人に手を差し伸べるような社会活動なんて、する気はないんだなぁって、それに思い至ったときには幻滅しました。
わたしは、もしそんな組織だったら、いくらでもメンバーとして修行させていただきたかったです

これは私も深く実感しました。
グループ内には、個人的にそうやって社会で頑張って奉仕している方がいる。
それを知った時、確かにそうだよな・・本当はそういうことをしていかないといけないんだよな・・と思いました。

でも、リーダーはずいぶん前から、そうした社会奉仕的な行動を優先させる考えに対して否定ともとれる指導をしてましたよね?
「小善と大善」という比較において、社会奉仕はどこまでも「小善」であり、組織に奉仕する・・組織内活動が「大善」である、というようなことは、もうかなり前・・20年近く前?くらいから何度も聞いてました。
先輩達からも、そうしたリーダーの指導を引用した見解を聞かされてきましたし。
それが今度は突然、その奉仕というのがなぜか弱者救済・援助というのではなく、「地域の一人者」的存在として、自治会長とかPTA会長とか、そうした「肩書き」のある立場になることの奨励みたいな指導に変わりました。

今から思えば、これは選挙支援に力を入れるようになってからです。
そしてこうした活動が多くなるにつれ、なんだか「富」とか「裕福」とかに価値を置くような指導内容になっていったようにも思います。

>宗門問題の直後は、「グループが今後どうなっても、信心を失くしてはいけない。ひとりになっても貫きなさい」って仰っていたはずなのに。
どこでどうなっちゃったんだろう…

そうですね・・
過去の指導には、いいものが沢山あったと思います。
でも、そうした素晴らしい発言が果たしてリーダー個人の言葉で見解なのかはわかりませんが・・
今まではそう信じてたけど、今は何が真意で、真実なのか・・私は直接会って話したこともないし、わかりません。
でも、なんとなくリーダーの持つ負の人間性が強く表面化してきただけなのかもしれない・・
そんなふうに考えたりもしています。
リーダーも私達と同じ「人間」ですからね・・

>ハッサンの「マインド・コントロールの恐怖」、読んでみられませんか?
今日、島田さんの「公明党vs創価学会」も買ったし、そういう本に興味がおありなら、お貸ししますよ(^ー^)
関東圏なら、お届けします。

ありがとうございます。
でも、図書館とかにありそうなら探して借りてみようかな・・
わざわざ届けてもらってではなんか申し訳ないですし。
ほんとそこまで薦めるには、それなりの意味があるのだろうと思います。

>また、一度、いわたちさんや脱カルト協会の講師の方に会ってみられるといいんじゃないかなぁって、そう思います。
きっと、何かが変わりますよ。
教学も、疑問があれば教えてくださるでしょうし、みみちゃんが正しいことを知ることが、みみちゃんの周りの人をも救うことになるのでは、と思います。

これは是非叶えたい縁ですね。
いろいろお聞きしたいことはたくさんありますから。
グループの深いところをよく知っていて去った人で、間違いを明らかにして主張される方っていませんよね。
これってなぜなんだろうと、疑問なんですが・・まぁいろいろあるんでしょう。

2007/07/07 11:17 | みみちゃん [ 編集 ]


 

みみちゃん

もしかしたら、書き辛かったかもしれないことを、
誠実に書いていただき、ありがとうございます。

法華経の智慧は、わたしも読みました。
線もたぶん、いっぱい引いてあるはず(笑)


>指導内容を忠実に実践すればするほど、組織に・・毎月の本部の打ち出し内容に、やはり前と同じ違和感を覚え、矛盾が湧き、先輩方と何度話し合っても納得できない。
>活動が惰性の時より、返って「ちゃんとやろう」と意識すればするほど、矛盾が大きくなっていったんですね。

この感覚、わたしも同じような感じでした。
真剣に取り組むほど、他のメンバーや幹部と話せば話すほど、
「何かがおかしい。間違ってる」って感じましたよ。
自分の良心が徐々に悲鳴をあげていった、というか…


>でも地区内の会員はほとんどが非活で、

ここは、わたしの状況とは違いました(笑)


>事実とはいっても、自分の知ってる全てが事実ではない。

そうですよね…。
確かに、受け容れがたいことです。
っていうか、受け容れがたかったです。

>事実も真実も、所詮は「人の心」にしか存在しないと思うんです。
これも、その通りだと思います。


>是非論

グループに疑問を持ち始めた頃は、こんなに非情な活動をしているのは、自分の地域だけなのかもしれないって思ったりしていたのですが、東京のほかの地域も同じ打ち出しなんだってわかって、絶望しました。
アンチではないので、グループを全否定もしませんのですが。

また、「信仰」と「組織運営」は、まったく別物で、
わたしが批判するのは、すべて組織悪についてです。

なんていうか…こんなに大きな組織なんだから、本気になればもっと人のためになることが、いくらでも出来るはずなのに、それをしない。
どんどんグループが大きくなるように、富むように、そんな活動しかなくて、
本当の意味での人間救済、苦しんでいる人に手を差し伸べるような社会活動なんて、する気はないんだなぁって、それに思い至ったときには幻滅しました。
わたしは、もしそんな組織だったら、いくらでもメンバーとして修行させていただきたかったです。

「グループを護ることが最大の幸福につながる」とかなんとか、よくトップのリーダーは仰ってました。
宗門問題の直後は、「グループが今後どうなっても、信心を失くしてはいけない。ひとりになっても貫きなさい」って仰っていたはずなのに。
どこでどうなっちゃったんだろう…


あ、わたしも脱線しましたね。
>あ、なんか長くなっちゃったなぁ~
これは、全然構いませんよ(^ー^)
ありがとうございました。
ご自身を見つめることが出来る、勇気のある姿勢に、学ばせていただきました。

また何でも、ご指摘や感想など、お願いいたします。





追伸:みみちゃん、もしも気が向いたらでいいんですけど、
ハッサンの「マインド・コントロールの恐怖」、読んでみられませんか?
今日、島田さんの「公明党vs創価学会」も買ったし、そういう本に興味がおありなら、お貸ししますよ(^ー^)
関東圏なら、お届けします。

また、一度、いわたちさんや脱カルト協会の講師の方に会ってみられるといいんじゃないかなぁって、そう思います。
きっと、何かが変わりますよ。
教学も、疑問があれば教えてくださるでしょうし、みみちゃんが正しいことを知ることが、みみちゃんの周りの人をも救うことになるのでは、と思います。

無理にとはいいませんので、もしその気になったら、それもいいんじゃないかなぁ~くらいに、思っておいて下さい!

2007/07/06 21:19 | 散歩虫 [ 編集 ]


遅くなりました・・ 

散歩虫さん

私がネットで自分の思考の「矛盾」の答えを探し始めたのは、グループの活動に真剣に取り組み直してからです。

望む仕事ができず、やりたくない嫌な仕事をしている中、もう、生きることが嫌になってしまって・・
もう題目しかない。と思いついた時、その日朝から一日ずっと仏壇の前に座り、10時間以上唱題しました。

『どうして?』という心の疑問を解きたかったんですね。
どうしても。

で、題目上げながら自分の今までの来し方や過去・現在を行きつ戻りつしながら考えたり思い出してはまた考えてみたり。
何時間経ってからか覚えてないけど、ああ、そうだ・・と気付いたんですね。自分の中の「変わらない意識」に。

正当化しようのない私の「非」を「観た」という感じ。
それはそれはもう今までにない心の打撃でしたね。
ある意味「傷ついた」という感覚に近いかもしれない。
でも、他人からでさえここまで傷つけられた経験はない。
そのくらい自分の思考から自分の本質を指摘してしまった・・・

その日から勤行唱題をきちんと続け、活動もきちんと取り組むようになった。
正役職でしたからね。きちんと責任を果たそうと。
でも、本棚にあるグループの指導者の書籍を何十冊と読み返し、中でもとりわけ具体的な実践法が書かれている『法華経の智慧』に書かれている通りに心を意識し、指導内容を忠実に実践すればするほど、組織に・・毎月の本部の打ち出し内容に、やはり前と同じ違和感を覚え、矛盾が湧き、先輩方と何度話し合っても納得できない。
活動が惰性の時より、返って「ちゃんとやろう」と意識すればするほど、矛盾が大きくなっていったんですね。

実際、末端現場で活動している人は「打ち出し」に書かれている通りの活動をする、「指示に従う」、それが「絶対正しいこと」であり、「正しい信仰のあり方」であって「本当の信心」という認識でいると思うんです。
でも地区内の会員はほとんどが非活で、活動家といっても婦人が2、3人いる程度。新聞も一応購読してるけど、読まずに放置してる人がほとんど。
じゃぁ、非活だから信仰心が全くないのか?と思えばあながちそうでもなかったり。
一人一人に会って話してみれば、皆がそれぞれ何を思っているか、信心や活動に対して何をどう考えてるのか、よく理解できるようになります。

人を理解する。
これが人倫社会を生きていく上で最も大事なことだ考えています。
是非を問う前の思考の「開始作業」というんでしょうかね、まず、「理解」が始めだと思うんです。
人を理解するだけでなく、自分で自分を理解できてないと両者の「違い」が分からない。
「噛み合わない」、意志の疎通が出来ないという理由は、何らかの原因があるはずで、それを明らかにしていかないと結論には結びついていかないと思うんですね。
どんなこともそうでしょう。これは対人間だけではなく、全ての物事に当てはまることだと思います。

で、自分のそうした考えが正しいのか間違っているのか、学会でいう「信心のあり方」としてはどうか?
その答えを周りの人に聞いても埒が明かないので、いろんなブログを見て考えたりしながら行き着いた先がkousanのブログだったんです。
最初はアンチに嫌悪してたんですけどね・・いろんな価値観や、見方、捉え方など、ほんと感化されました。
事実とはいっても、自分の知ってる全てが事実ではない。
それは確かに自分にとっては受け入れがたいことであるけど、でも、そうした納得できないものの「事実である」ことに間違いはない。
また、それが「真実」であって、その真実を語る「人」がいるからこそ真実は存在するわけで、その「存在」を否定することは、深く言えば、「人間を否定」することになるのかと。

事実も真実も、所詮は「人の心」にしか存在しないと思うんです。
一般的にはその展開を指して「事実」「真実」といってるわけですが、根本はその主体者である「人心」ではないかと、最近では考えるようになりました。

存在をそのまま見る。
それが「平等観」ではないかと。
是非論はあくまでも、存在を掘り下げて見てからではないと不毛なものかもしれませんね。
「本質を見極める」ことが「日蓮の視座」だろうと思うし、それを教えたいという思いが在世当時の振る舞いであり、生き方であったのではないかと。

「題目」とは、グループの人たちが考えてるような自身の業因を無視した呪文のような奇跡の言葉ではなく「日蓮の心」であって、そうした因果を無視した論理の飛躍をしがちな人間の愚かさを改めさせたいという思いから、開目抄も顕されたような気がします。
この世の人々の心の眼を開かせたいという強い思いで、では私がそれをいていこうじゃないか、と。
そうは書いたものの、もしかしたら日蓮の心は煩悶でいっぱいだったかもしれない。
「不動」とはいっても、心は揺れるし様々変わるものですから、人として、人と同じように、悩んで苦しんで考えて・・私達と同じ心の葛藤を生涯続けられたんじゃないだろうか・・そんなふうに考えたりしました。

あ、なんか長くなっちゃったなぁ~
おまけに話が違ってきてるし。
すんません・・どうも私は話しをしだすと展開展開で、まとまらず。

ま、んな感じで、とりあえず、今回はおしまい。
では。

2007/07/06 10:29 | みみちゃん [ 編集 ]


 

みみちゃん

>十数年していた正役職を辞めさせてもらって

そうでしたか…お疲れ様でした。
お説教というより、「長い間お疲れ様」の一言くらい、あってもいいようなもんだと思いますけどね~。


>そして、「特別」という人間はこの世には存在しない。
>誰もみな「平等」という価値観を教えてもらえました。

そうですよね。
どこぞの教祖であれ、どこぞのメンバーであれ、僧俗ともに
ただのフツーのヒトですよね。
そしてもちろん、自分自身も。


>質問の返事はまた後日、書かせてもらいますね。

ありがとうございます。
でも、書きたくなければ無理に書かないでも大丈夫ですからね(^ー^)

2007/07/01 15:41 | 散歩虫 [ 編集 ]


こんばんわ 

散歩虫さん

>あら、みみちゃん、メンバーと対決しちゃったりしましたか?(笑)

今はもう対決はしませんよ。
昨年まではずっとしてましたけど。

昨年の12月、支援活動に切り替わっったのをきっかけに十数年していた正役職を辞めさせてもらって非活に。
まぁ、グループの偉い人たちがこの時とばかりにドカドカ来て「お説教」されましたけど。

「生き仏」とされる方を、私もずっと尊敬してましたけどね・・
見当違いだったと。今年に入って、いろんな人から教えてもらい、なるほど・・と理解、納得できました。

そして、「特別」という人間はこの世には存在しない。
誰もみな「平等」という価値観を教えてもらえました。

質問の返事はまた後日、書かせてもらいますね。
今日はこのへんで。

2007/07/01 02:32 | みみちゃん [ 編集 ]


 

みみちゃん

>ひかり電話

お!開通、おめでとうございます。


>いろいろ超えて、ひとつひとつ消化していく・・

そうですね~。
人って、自分で経験してみないとわからないですもんね。
自分で超えて、自分で消化するしか。


>ああも鈍感っていうか無神経っていうか図々しいというか、ふてぶてしいというか

あら、みみちゃん、メンバーと対決しちゃったりしましたか?(笑)
何か批判的なことを聞くと、メンバーは、
それは「魔」だから、と思考停止を起こすこともありますしね。



すいません、質問があるのですが、お時間のある時で結構ですので、教えていただけたら嬉しいのですが。

みみちゃんが、ネットに参加したり、組織を批判したりできるようになったきっかけは、どんなことだったんですか?

諸事情で書くことが難しかったら、この質問はスルーでOKです(^ー^)

2007/06/30 23:54 | 散歩虫 [ 編集 ]


頭と心は違いますねぇ 

散歩虫さん、こんにちは。
ひかり電話にしたらPCの設定できなくて・・
もう、意味わかんねー!!状態で。疲れました。

で、お返事ありがとうございます。

よくわかりますよ。言われてること。
私は「今は」、これまでの経験で『なんかそうかもなぁ~』って思うだけのことですから、どうにもならなかった時の自分の心を忘れたわけではないので、『みんなもきっと、ああいう感じなのかもなぁ』って理解できる・・って感じですかね。

いろいろ超えて、ひとつひとつ消化していく・・
そういうもんじゃないですかねぇ・・人間って。

それにしても、グループの人には付ける薬無いです。
ああも鈍感っていうか無神経っていうか図々しいというか、ふてぶてしいというか、ま、どれもマッチングしてますが。

この人たちこそ、学習能力を鍛えて欲しいです、ほんと。

2007/06/30 14:44 | みみちゃん [ 編集 ]


 

みみちゃんへ 追記

>「心を知る」とは、人の心に自分の心を交えずに「感じる」ことではないかと思います。


これですが、場合によっては、難しいこともあるんです。

1)その相手の心の状態を、感じたくない場合
2)相手に対し、無意識下のコンプレックスがある場合

こういうとき、相手の言うことをそのまま受け取れないことがあります。
わたしも、たまにしちゃいますよ。人間なら誰でもある心理です。


エリック・バーンさんは、それを「ゲーム」という考えで説明しています。
もし、お時間ができたときには、ちょっと知っておくと便利ですよ~(^ー^)


3つ目として、3)相手の心なんか、知りたくも無い
っていうのも、あるかもしれませんね。
この場合は、もう仕方がないです(笑)

2007/06/23 14:12 | 散歩虫 [ 編集 ]


 

みみちゃん

はじめまして(^ー^)
コメント、ありがとうございます。

まず、この「生命」というエントリーを書いたのは、素のわたしで日蓮さんに出会ってみたかったからでした。


>私には、グループの人達の解釈とは違う日蓮の心が自分の胸に迫ってきたりしますね・・

>人が「伝えたい」という「思い」・・「願い」を、それを聞いた人、見た人が、どう汲み取るか、どこまで汲み取ってあげられるか・・
それが「知る」という本当の意義ではないかと思うんです。

>人が「伝えたい心」を、自分はどこまで限りなく「そのままの姿」で、自分の心に受け止めることができるか・・

>「心を知る」とは、人の心に自分の心を交えずに「感じる」ことではないかと思います。

みみちゃん(みみちゃんって呼ばせていただいていいでしょうか?)が仰る、上記のことは、わたしも同意見なんです。


で、「無意識の中に、休むことに罪悪感や恐怖を受け付けるツール」は、グループがそういうツールに使っている、という意味です。

会合なんかで、体験発表があり、御書講義があり、幹部の話があり…
御書講義で、「魔たよりをうべし」という御文について 学び、
その前後の体験発表や幹部指導で、選挙や新聞啓蒙や折伏(現在の活動の優先順位で並べてみました(笑))などの、活動についての話があるとします。

会合に、はじめから終わりまで参加した人の内面に、その時どのような変化(動き)が起きるか。
これがMC論です。

そして、その会合でひとりひとり、自分の目標なんか言わせられた日には、活動にコミットするように、その人の心は動いてしまう。

ぶっちゃけ、かつてのグループにとっては、日蓮さんじゃなくても良かったんじゃないかなって、思ったりします。


>日蓮が人を縛るエゴに発して御書となる手紙を書かれたとは思えない。

これも、同じように思います。
っていうか、日蓮さんが現代の宗教界の状況を見たら、ビックリなさるでしょうね~(笑)


>打ちひしがれる・・とか、血の気が引く、ショック・・といった感じでしょうか。
確かによく考えてみればこれはオカシイ理論で、因果無視・現実乖離してるのはわかりそうなことなんですけどね、わからなかった・・気付かなかった。

いや…そのお気持ち、手に取るようにわかります。
そりゃ~ショックですよね。わたしも、それを受け容れるまでに長い時間がかかりましたし、自分のそれまでの価値観が壊れてしまったことに、茫然自失していました。
その後は、ものすごい怒りに駆られたり、無気力になったり。

脱会当時は、自分のことを思想の「難民」と呼んでいました(笑)


>私はとっても思いこみが激しいので、ここを改めながら生きていきたいです。

一緒ですよ~(^ー^)
だってグループでは、「信をもって知恵となしなさい」と教えられますよね。
まず信じなさい、って。
思い込んでしまっても、仕方がないと思います。


しかし、みみちゃんの仰るように、戻ることはできないませんもんね。
「これがわたしの人生だ~」って、引き受けていくしか。
改めるべきところは改め、でも大切に持っていたい思いはそのままに、
これからを作っていこうと、わたしも思っています。


記事、読んでくださってありがとうです。

ちょうどPC開いていたので、即レスになっちゃいました。

2007/06/23 11:57 | 散歩虫 [ 編集 ]


根本的な誤り 

すいません。
書き忘れたことがありました。
で、連投させてもらいます。

私がずーっと信じていたこと。
それは『題目によって、自分の生命が、三千大千世界(すべての世界のこと)にあまねく感応し、 生命力が豊かになり、 また自分の祈るとおりに願いがかなう、というように教わった』ことなんですね。

で、この、グループの根本的宗教理論である「 宇宙生命論」が「誤り」であることに気が付いたのは、今年に入ってからでした。

正直、愕然・・という感じでした。
そうだよね・・ほんとそうだ。と・・。

打ちひしがれる・・とか、血の気が引く、ショック・・といった感じでしょうか。
確かによく考えてみればこれはオカシイ理論で、因果無視・現実乖離してるのはわかりそうなことなんですけどね、わからなかった・・気付かなかった。

自分の思いこみだった・・としかいえないことが、情けなかったです。

まぁ、これを「MCされてた」という言い方もありでしょうけど、自分的には、そういう解釈の仕方って嫌いなので・・・なんか受身というか、被害者意識的な考え方が嫌いなので・・・自分の価値観が誤りであったと認めるに留めて、そこから考えを変え始めて今に至ってるところです。

過去を考えると、悔恨はいっぱいあります。
でも、戻ることはできない。
生きた人生の果は「今」であって、ここからどうしていくかしかない。

私はとっても思いこみが激しいので、ここを改めながら生きていきたいです。

2007/06/23 11:15 | みみちゃん [ 編集 ]


視点が大事 

散歩むしさん、はじめまして。
ナウシカさんのオススメで、こちらのブログ読ませて頂きました。

で、この記事でちょっと・・というより、どーしても違うと思うことがあったので、それを不躾に書かせてもらいます。

日蓮の御書に書かれている「日夜朝暮にまたおこたらず磨くべし」が「MC」かもしれないと捉えるのは、それは「MCの概念」に沿った見方をすれば確かに、なるほど・・と理解できますが、でも、そう書いた「日蓮の心」は「唱題の奨励のために」であったのか、そうでないのか?
そこに「真実」があるのではないでしょうか?

以下の「月々・日々につより給え」「すこしもたゆむ心あらば魔たよりをうべし」も同じですね。

これは散歩虫さんが結ばれているように、『日蓮が「魔」という言葉に、本当はどんな意味・意義を込めたのか 知ることが大切なのではないか』と考えることが最も重要だと私は思います。

では『知る』こととは、どのように「知る」のか。

それは本人に聞く以外、不可能なこと。私はそう思っています。

じゃどうしたら知ることができるのか・・

日蓮はどういう真意で云わんとしたのか、何を伝えたくて、MCとも捉えられる表現をしたのかと考えながら御書を読んでみると、グループの通解とは全く別の意味合いで解釈できたりします。

私には、グループの人達の解釈とは違う日蓮の心が自分の胸に迫ってきたりしますね・・

人が「伝えたい」という「思い」・・「願い」を、それを聞いた人、見た人が、どう汲み取るか、どこまで汲み取ってあげられるか・・
それが「知る」という本当の意義ではないかと思うんです。

人が「伝えたい心」を、自分はどこまで限りなく「そのままの姿」で、自分の心に受け止めることができるか・・

人は誰も、自分の視座からの主観を基準にして解釈しがちですよね。
都合のいいように、「無意識の正当化」に働く心に従い、その「心と思考」を本能的に整合させようとするのでしょうか、精神の均衡を保つ自然な働きともいえるかもしれないし、それがある意味「エゴ」なのかもですが。

そんなふうに考えてみると、日蓮が「心」を鏡に譬えて『磨くべし』と言われるのも、なるほど・・と思えるのです。

人の心は自分の外に「存在」としてあるのは事実で、それに自分の思考を加味したり色をつけたりして変えたりせず、「そのまま」感じることが、「心という鏡に映す」ということだろうと。

「心を知る」とは、人の心に自分の心を交えずに「感じる」ことではないかと思います。

なので、散歩虫さんが

>無意識の中に、休むことに罪悪感や恐怖を受け付けるツール

と解釈されるのは、MCという概念に沿ってみれば確かにその通りですが、果たして日蓮はどういう真意であったかと考えると、それは違うだろうな・・と私は思います。

日蓮が人を縛るエゴに発して御書となる手紙を書かれたとは思えない。
今のところ、そう考えています。

2007/06/23 10:34 | みみちゃん [ 編集 ]


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